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アムネスティ・インターナショナルの歴史
1961年にロンドンで生まれた、アムネスティ・インターナショナル。今では世界中の約80ヵ国に活動拠点をもち、さまざまな人権問題にとりくんでいます。しかしその歴史は、たった一人の市民の勇気ある行動からはじまったのです。
自由を奪われた人びとを救うために
アムネスティの創立者ピーター・ベネンソン
1960年のある朝、英国の弁護士ピーター・ベネンソンは、一片の新聞記事に目を奪われました。それは、当時、軍事政権下にあったポルトガルのとあるカフェで、学生二人が「自由のために!」と乾杯したために逮捕され、7年の刑を受けた、という記事でした。
その記事に強い衝撃を受けたベネンソンは、1961年5月28日、英国の「オブザーバー」紙とフランスの「ルモンド」紙に記事を投稿します。「忘れられた囚人たち」と題されたこの記事は、当時、政府との意見の違いにより囚われの身となっていた、6人のことを取り上げました。
軍や警察などの国家権力によって自由を奪われ、その存在すらも消されてしまう人びとがいる。そうした人びとを忘れないために、世界中の人びとが声をあげることができれば……。ベネンソンは記事をとおして、読者にそう呼びかけたのです。
アムネスティ・インターナショナルの誕生
英国の「オブザーバー」紙に掲載された「忘れられた囚人たち(The Forgotten Prisoners)」の記事
この呼びかけに、人びとは応えました。記事は欧米各国の新聞に翻訳され、わずか1ヵ月の間に、1000通を超える反響が寄せられたのです。
ベネンソンは、暴力をもちいていないのに、自らの信念や人種、宗教、肌の色などを理由に囚われの身となった人びとを「良心の囚人」と呼ぶようになります。そして、彼らの釈放を求め、世界各地の市民の手で各国の政府に手紙を書こう、と呼びかけました。
ベネンソンが始めたこの運動に、その年の終わり、「アムネスティ・インターナショナル」という名前がつきます。アムネスティとは、英語で「恩赦」を意味します。「恩赦」とは、「罪を赦す」という意味です。遠い異国で、自由を奪われ苦しむ人びとを想い、市民が自らの手で釈放を求めよう。国境を越えた人権運動の誕生です。
急速に広がる草の根運動
ノーベル平和賞の賞状
手紙によって、「良心の囚人」の解放を求める市民のつながりは、アジア太平洋、中南米、アフリカと、世界各地に広がっていきます。
世界各地に次々と、ボランティアがアムネスティのグループを発足させます。インターネットが存在しなかった時代であるにもかかわらず、このボランティアによるグループ活動は、またたくまに広がっていきました。そして発足から10年もたたない1970年には、27ヵ国に850以上のボランティア・グループが立ち上がったのです。同年、日本にもグループが発足します。
活動が拡大していく中でも、アムネスティは、いかなる政治的、宗教的な党派にも属さず、また政府からの援助も一切受けずに、中立的な立場で、人権侵害の改善に貢献してきました。その功績が認められ、1977年にノーベル平和賞、そして翌1978年には国連人権賞を受賞します。
その後、アムネスティは「良心の囚人」をはじめとする、人権侵害に直面する個人の救済を中心とした活動から、「世界人権宣言」にうたわれた、すべての人権が守られる世界の実現をめざして、活動の幅を広げていきます。
変わりゆく世界の中で
ICCM(国際キャンペーンコーディネータ―会議)でのWOZAアクション
現在、アムネスティ・インターナショナルは、国連の経済社会理事会(ECOSOC)の特別協議資格を持つNGO(非政府組織)として、国際的な発言力を持っています。またその人権侵害に関する情報は、世界中のメディアの情報源として、日々活用されています。
東西冷戦が集結を迎え、世界が平和へと動き出したと思われた矢先に起こった、1991年の湾岸戦争。その後の同時多発テロと、「テロとの闘い」の名のもとに起きた人権侵害。途上国での貧困の悪化など、世界の人権を取り巻く状況は、刻一刻と変化しています。
そのような状況に呼応し、アムネスティも2001年からは、人間らしく生きる権利を奪われた人びとに焦点をあて、妊産婦の生きる権利、強制立ち退きにさらされる人びとの権利、企業の社会的責任を追及するキャンペーンを展開するなど、活動を多様化させています。