- 2012年7月19日
- 国・地域:中国
- トピック:先住民族/少数民族
親族を捜す家族が嫌がらせを受け、拘禁されている。―2009年7月5日の抗議行動から3周年。
新彊ウイグル自治区(XUAR)ウルムチでのウイグル人による抗議に対する厳しい弾圧の3年後、何百とまではいかないまでも数十人のウイグル人が当局により強制的失踪されられたままであり、その家族は、彼らの所在や安否、法的地位について何の情報も与えられないままである。
新彊の当局は、捜索や上層部当局者への請願をやめさせようと、行方不明の親族の情報を求める家族を拘禁し、脅迫し、恫喝してきた。今月、数十のウイグル人家族が、回答もしくは是正を要求して、親族を捜索していることについて公表した。ラジオフリーアジア(RFA)とのインタビューで最初に自らの経緯を明らかにした人びとは、それ以来、監視が強化され、恐喝され、外国人の集団に話をすることを禁止すると命令されたりしたことについて述べている。
アムネスティ・インターナショナルは、強制的失踪させられた人びとの所在と法的地位を明らかにし、回答と是正を求める家族への迫害を止めるよう中国政府に要請する。
2009年7月5日に新彊ウイグル自治区(XUAR)の区都ウルムチのウイグル人は、6月26日の広東省韶関市でウイグル人移住労働者の殺害について政府が何も対策を取らなかったとみられることに抗議する為に集まった。デモは平和に始まったが、抗議する人びとに警察が暴力を行使したことをきっかけに暴動が起こった。公式な数字によれば、197人が暴動の最中に死亡し、そのほとんどは漢民族だった。
騒乱後にアムネスティが集めた目撃証言は、事件の公式見解を疑問視するものであり、抗議するウイグルの人びとに対する殴打や、催涙ガスの使用、直接群衆を標的にした発砲など、警察による不必要ないし過剰な武力の行使を指摘するものだった。騒乱後には大量逮捕が行われ、一軒一軒捜索した結果、何千とはいかないまでも何百人もの人びとが恣意的に逮捕された。後に多数の報告が、強制的失踪や拘留中のウイグル人に対する拷問や虐待について詳述している。
何百とはいかないまでも、何十人もの人びとが未だ強制的失踪させられたままである
2009年7月以来失踪している親族についての経緯を、先月、何十人ものウイグル人家族が公表した。失踪した中で最も若い人は拘禁時16歳だった。発表したのは、新彊ウイグル自治区のウルムチ、カシュガルおよびホータン地区カラカシュ県などに住む家族である。
行方不明者の中には、肉屋、自動車整備士、レストランの支配人、バス運転手、露天の果物売り、料理人、16歳の学生、仕事を始めようとしていた新卒の大学生、料理人兼音楽家、森林デザイン学校の新卒者がいる。これらのうち19家族だけは名前の公表を許可している。すべての家族が当局の報復を恐れている。
このグループは失踪した親族がいる家族のごく一部と思われる。イマムメメット・エリ の母、パティグリ・エリは、ここ何年かで、ウルムチの警察署と政府ビルの前で、2009年7月の騒乱に続く大量逮捕の最中に拘禁された後失踪した親族についての情報を求める少なくとも30の家族と会ったと語った。ウルムチ公安部の王明山局長はその様な家族から300の親族捜索依頼を受け取っていることを認めたと報告されている。
ある家族の一員によれば、ホータン地区(カラカシュ県)ひとつだけで、失踪した親族がいる家族が200以上あるとのこと。これら家族の多くは、当局による報復を恐れて前面に出ることを恐れてきた。多くの家族にとってウルムチと北京に行く経済的負担は相当なものであるが、それでも尚、彼らは情報を求めて何度も往復した。ある者は、親族の失踪に対する当局の是正措置や補償を求めてさえいない、単に親族が生きているのか死んでいるのかを知りたいだけだという。ある者は、彼らが最初に悲しい知らせを受け取っていた場合より、不確かな気持ちのままで生きる方が、いろいろな意味でいかに辛いかを述べている。
国連の拷問禁止委員会や国連人権委員会をはじめとするさまざまな国際機関は、当局が親族の身に起こったことを知る家族の権利を何ヵ月も何年も否定してきたたくさんの事例について、拷問やその他の虐待の禁止に違反すると裁定してきた。
RFAによって初めて公開された、さまざまな追加の情報源を通じてアムネスティ・インターナショナルが確認できた失踪者についての事例を、以下にいくつか紹介する。
トゥルグン・オブルカスム
当時33歳だったトゥルグン・オブルカスムは、2009年7月9日、ウルムチにある彼の職場である華橋ホテルのメディナレストランから、他の4人の従業員と共に警察に連行された。ウルムチ騒乱が起きた7月5日、トゥルグンはレストランで働いていた。レストランとホテルのマネージャであるサルフラットは、従業員を守るために、騒乱が発生するとレストランを締めて扉に鍵をかけた。
サルフラットはまた、暴動とその取り締まりが続いている中、従業員が街に出て行くことのないよう、従業員がホテル内に留まるのを許可した。サルフラットによると、7月5日当日もその後も、トゥルグンと他の4人の従業員は、ホテルの外には出ていないということである。またサルフラットによると、華橋ホテル内にある4つのレストランで働く70人以上の従業員が、7月9日に警察により連れ去られたそうである。
サルフラットはその後トゥルグンがウルムチ市内のリュダワン警察署に連行されたことを知り、トゥルグンにいくらかのお金を送る手配をした。しかし、サルフラットが二日後に再び警察署を訪れた時には、トゥルグンはもうここにはいないと言われ、トゥルグンがどこに連れて行かれたかについては何も教えてもらえなかった。引き続きトゥルグンの捜索を続けた後、サルフラットは警察に尋問され、捜索を止めるよう警告された。トゥルグンの妻であるメルハバは夫を捜しており、トゥルグンがいなくなったことで自分と子供を養うすべを失ったため、サルフラットはメルハバに対して、財政的支援(月600元)を始めた。
メルハバは、彼女の夫が連れ去られた日からずっと夫を捜していると言う。「夫の所在を尋ねるため市の公安局を何度訪ねたか分かりません。火曜日の時もあれば、それ以外の曜日の時もありますが、毎週公安局に行っています。行く度に、『家に帰って子供の世話をしなさい。後で連絡するから。帰りなさい。』と言われます。」とメルハバは語った。
3年間のあいだ、中国当局は、メルハバの夫の所在や健康状態についてメルハバに何ひとつ知らせていない。
弁護士を雇ったのかを尋ねると、メルハバは「いいえ」と言う。昨年当局が弁護士を見つけてくれると言ったが、まだ見つけくれていないとメルハバは言った。なぜそんなに長くかかるのかと尋ねると、メルハバは「分かりません。何も分かりません。」と答えた。弁護士費用の支払いは大変かという問いには、「もちろん、大変です。私たちにはそれ以外にもさまざまな困難があります・・・」と言う。
メルハバはウルムチ市公安局へ行く度に、メルハバと同じように失踪した親族を捜している5組から6組もの家族をいつも見かけると言う。ウルムチ市公安局は、メルハバが夫の消息を尋ねるため最もよく訪れる場所である。「私たちは少し話をして、それから家に帰ります。」
メルハバとトゥルグンには幼い子供が一人いる。
アバホン・ソプル
4人の子供の父親であるアバホン・ソプルは、7月7日、ウルムチ市内で警察に連行された。彼の妻レイハングリ・タヒルによると、果物商のアバホンは、商売の場所を、暴動の場所から離れたウルムチ市内の華凌地区に移動して、7月5日に暴動が起きた場所にはわざわざ近づかないようにしていた。アバホンは、7月5日の晩は無事に家に帰ってきて、7月6日は敢えて出かけないことにした。しかし7月7日は商売を続けるために思い切って出かけた。その晩、アバホンはレイハングリに電話をかけて来て、家に帰る途中、友人達と一緒に警察に止められたと話した。アバホンは、警察が、道路の多くが封鎖されているので、アバホンと友人を車で家まで送ると言っているとレイハングリに言った。警察はアバホンを家まで送る代わりに、ウルムチ市内にある人民広場近くのシェンミン警察署に連れて行った。アバホンは心配しないで、すぐに家に戻るからと妻に言った。しかし、その晩11時になってもアバホンはまだ家に戻らず、彼の電話は電源が切れていた。その後レイハングリはアバホンと連絡が取ることができず、当局からアバホンの所在について詳しい情報は何も得られなかった。
アバホンの拘禁から一ヶ月後、拘禁から解放されたウイグル人男性たちのグループが、アバホンは7月7日の晩、シェンミン警察署に連れて行かれたことを確認した。そして、アバホンがアイタンという名前のカザフ人の警官による尋問を受けていたと、レイハングリに話した。アバホンと拘禁されていたその他の約30人はその後ウルムチ市内にあるさまざまな監獄や拘禁センターに移送されたが、ウイグル人の男性たちは、アバホンがどこに送られたかは知らなかった。
レイハングリはアイタンというカザフ人の警官の居所を突き止めたと話す。彼女によると、アイタンは、7月7日にアバホンが警察署に到着した後、アバホンを尋問したが、彼を拘禁し続ける理由は何も見つからなかったことを認めたそうである。しかし、アイタンの上司がアバホンの釈放を許さなかった。アイタンによると、アバホンはウルムチ市内のディイェンテイ拘禁センターに送られたそうである。
しかし、レイハングリがディイェンテイ拘禁センターに行くと、係員はアバホンがそこに居たという登録がされたことは一度もないと言った。レイハングリは、その後どのようにウルムチ市内外のすべての拘禁センターに行き、夫に関する情報を探して警官やあらゆる階層の政府当局者に夫について尋ね、そしてそれが無駄に終わったかについて語っている。
レイハングリは、この3年間夫をずっと捜し続けたことについて説明している。レイハングリは、親族が失踪した他の7組の家族と共に、中央政府に直訴するため北京まで行った。しかし、北京到着後間もなく、新疆ウイグル自治区から派遣された40人以上の警官に無理矢理連れ戻された。
北京に行った後、レイハングリが再び直訴するのを防ぐため、当局がレイハングリと4人の子供を、ウルムチからカシュガルに強制的に移住させたとレイハングリは言う。
最近、夫に関する情報は何かあったかと尋ねると、レイハングリは「何の情報?何の情報もありません。今のところ何の情報もありません。当局は夫を生きたまま食べてしまったか何かなんでしょう。これまで、政府は夫がどこにいるのかについて何一つ教えてくれたことはありません」と答えた。
「この3年間、アバホンに関する情報は何一つありません。地元の警察が家に来てから今日で大体10日目になります。私は警察に、夫の失踪について直訴するためにもう一度北京に行くと言いました。前回、北京に行ったときは、北京に行ったのは初めてだったのですが、警察が私たちを逮捕し、拘禁センターに拘禁し、家に連れ戻しました。そのため、直訴することができませんでした。それ以来、夫に関する情報は全くありません。私が再び北京に行くと聞いた後、北京に行かないよう私に圧力を加えるために、警察が家にやって来ましたし、村長と警察署長も家にやって来ました。しかし、彼らは夫については何も話しませんでした。何の情報もありません。」
失踪した親族について話した他の家族たちと同様に、レイハングリの家にも最近警察がやって来て、今後二度と夫について誰にも話さないようにとレイハングリに警告した。
イマムメメット・エリ
イマムメメット・エリは、華南理工大学を卒業しその時25歳であったが、ビリヤードをしているとき4人の友人と共に、2009年7月14日にウルムチで拘束された。他の友人たちは徐々に釈放されたが、イマムメメットについての消息はなかった。彼の母親によると、イマムメメットは最初、7月5日の抗議デモに加わったが、事態が暴力的に変わった際にデモから離れたとのこと。
彼の母、パテグリ・エリは、この3年間彼の安否について当局からの回答を求めてきた。
「約3年の間、私は、息子がどこにいて、生きているのか、あるいは死んでいるかさえ知りません」と、パテグリはRFAに語った。
イマムメメットが最初に留置されたリウダワン警察署に、パテグリは先ず問い合わせたが、警察官はイマムメメットがミチュエン県のミドンチュウ拘置所に拘束されていると書かれた紙片を彼女に渡した。 しかし、その拘置所を10回ほど訪れたが、そんな人はいないと彼女は言われた。
彼が拘禁されて9ヶ月後に、イマムメメットと同室に入れられた元囚人たちから、パテグリは情報を受け取った。彼らのうちの一人はパテグリに、イマムメメットは何度も取り調べを受け、拷問されたと話した。彼は、イマムメメットは何も食べられず、時々吐いていたと語った。あるとき尋問が続き、それが終わってイマムメメットが部屋に戻った時には、立っていることができなかったこともある。別の元同室者によると、イマムメメットは最初と2回目の尋問の後、部屋に戻ってきたときは普通の状態であった。しかし、3回目の尋問では、3日間部屋に帰らず、戻ってきたときには立っていることができなかった。2009年8月中旬のあるとき、イマムメメットは病院へ連れて行かれ、二度と拘置所へ戻ってくることはなかった。
それ以来、パテグリは、彼女の息子について何の知らせも手にすることはなく、彼女の問いかけに耳を貸してもらえなくなってしまった。
「事件が難しすぎるということで、この地域の当局は私に聞こうとしません。この地域の報道関係者も、事件がとても微妙だからと怯え、私の話を聞こうとしません。」
外国のメディアへ話した後は、彼女は常に監視された状態にあり、どこでも尾行されているとパテグリは語った。 4時間交代で彼女を監視するため、彼女の家の前には常時、警察が立ちはだかっている。一度、彼女の問いかけに反応しない警察官を侮辱したため、彼女は8日間拘禁されたことがある。
「私が買い物に行くときには彼らは私に付いてきて、私が誰かの家を訪問する時、彼らは外で私を待っています。」
4人の子供を持つ未亡人であるパテグリにとって、彼女の息子の運命を知らずにいることは、喪に服することもできず、あるいは悲嘆にくれることもできないことを意味していた。
パテグリ・エリは、「もし私の息子が死んだと知っていたとするなら、私はそれほどひどく苦しむことはなかったでしょう。なぜなら、私は、彼のことを忘れるか、少なくともその運命を受け入れる、何らかの方法を見いだすことができたでしょうから。」
ナビジャン・エリ
ナビジャン・エリは、2009年に拘禁されたときは16歳であり、家族らが最近発表した失踪者達の中で最も若い。 彼の父、エリジャン・エリは、何人かの別の拘禁された人びとと共に、約30人の警察官に取り囲まれウルムチ市内の通りを引き連れられていったナビジャンを、最後に見た時の様子を詳しく話した。
エリジャン・エリは、彼の息子が殴打され、警察のバンに蹴り込まれ、そのバンで連れ去されるのを見たと話した。 彼はオートバイでトラックに追い付こうと試みたが、「私がその場面に遭遇し、自分の無力を思い知ったとき、私は初めて、なぜこんな世界に生まれてしまったのか自身に尋ねていたのです」とRFAに語った。
エリジャンが警察に問い合わせた時、彼の息子は「被拘禁者のリストに記載がない」と言われた。
3年問い合わせていても、エリジャン・エリは彼の息子の所在や安否についての情報はまったく得られていない。
アムネスティ・インターナショナル公式声明
2012年7月4日
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