死刑賛成論を再考する
人が人を殺すことは、許されない残虐な行為です。これには多くの人が「そうだ」とうなずくでしょう。だからこそ、この社会では殺人は重い罪に問われるのです。それなのになぜ、国家が人を殺すこと、すなわち「死刑」は許されているのでしょうか。
「死刑賛成」の人々の声をきいてみると、こんな理由が挙げられます。
被害者感情 死をもって償うべきである 犯罪抑止力 社会の安全 世論の8割が賛成である
これをひとつひとつ、検討してみたいと思います。
被害者感情「自分の子どもを殺されても、死刑反対といえるのか?」
まず挙げられるのは「被害者感情」です。「自分の子どもを殺されても、死刑反対といえるのか?」という言葉が突きつけられます。家族や大切な人が殺されれば、「犯人を殺してやりたい」という気持ちが湧いても、当然です。
しかし、「殺してやりたい」と思うことと「実際に殺す」ことの間には、大きな隔たりがあります。「殺してやりたい」ほどの憎しみを抱いても、多くの人は「実際に殺し」たりしません。人が人を殺すことには、大きな心理的障壁があるからです。この大きな隔たりを踏み越え、「殺してやりたい」ので「実際に殺して」しまった人が「殺人犯」です。それは、一般社会から見れば「とんでもない」「信じられない」逸脱した行為です。
「死刑」とは、まさにこの大きな隔たりを乗り越えることに他なりません。「殺してやりたいほど憎い」ので、国家権力に代行してもらい「実際に殺す」。「国家による代行殺人」、それが「被害者感情」に基づいた「死刑執行」です。
「命を大切に」といいながら、なぜ被害者遺族の「報復感情」が、容易に肯定されるのでしょうか。大切な命だからそれを奪うことが大きな罪となるのに、なぜそこにある命を奪うことを是とするのでしょうか。ここに、死刑制度の大きな矛盾があります。
「死刑」によって被害者遺族の「報復感情」は満たされるでしょうか。慰めになるでしょうか。たとえ死刑に処しても、被害者遺族が真に慰められることはないでしょう。犯人を殺しても、大切な人が戻ってくることはないからです。それどころか、犯人の死を望み、望みが遂げられたことが、被害者遺族のさらなる心の傷になることもあるでしょう。
二度と悲惨な事件が起らない社会をみんなで作ること、被害者や被害者遺族に救いの手を差しのべること、被害者の声を聞き、その苦しみを共有できるやさしい社会を作っていくこと。それこそが、ほんとうの被害者救済につながるのではないでしょうか。
忘れてはいけないのは、被害者の中にも犯人の死刑を望まない方がいるということです。死刑を望まないと、周囲や家族から「なぜ死刑を望まない」「冷たい」「家族を愛していないのか」と責められるケースさえあります。「被害者家族は犯人の死刑を望むべき」という同調圧力が相当高いのが現状です。人の死を願うことは、大きな苦痛です。「被害者感情」と一括りにして、これを死刑存続の拠り所にすることは、このような方々により大きな苦痛を与えることを、心に留めていただきたいと思います。
「死をもって償う」ことは可能か?
犯罪者は、罪を償わなければならない、という考え方もあります。目には目を、歯には歯を、殺人には殺人を、という論理です。しかし、それは乱暴で野蛮な論理です。「死」は、ほんとうの「償い」になるでしょうか。被害者遺族は、それで納得がいくでしょうか。
犯人が死刑に処されたからといって、被害者遺族は納得がいくものではありません。大切な人が戻ってくるわけではないからです。では、犯人が生きていて、償いの心をもったらどうでしょうか。だとしても、真実納得のいく日は、おそらく永久に来ないでしょう。
どちらにしても納得がいくわけがないのです。犯人を死刑に処しても、犯人が生きて償いの心を持ったとしても。そんな残酷な、取り返しのつかないことが「殺人」なのです。
そして、怖ろしいことに「死刑」という制度もまた、ひとつの「殺人」であることに何ら変わりはないのです。死刑は「国家によって許された殺人」です。
つまり、国家によって「許された殺人」と「許されない殺人」があるということになります。これは、おかしなことではないでしょうか。国家の体制や価値基準が変われば、死刑の基準も変わるでしょう。この人は死刑にして、この人は生かす。その基準となる「正義」とは、なんでしょうか。
「正義」とは?
「正義」は、時代によって、文化によって違ってきます。テロ行為でさえ、それを行う人々にとっては「正義」に他なりません。
「正義であれば人を殺してもよい」ということになれば、異なる正義を掲げる人々が互いに争いあうことになります。テロも、戦争も、正義の行いということになります。
もしも「人を殺してはいけない」という、たったひとつの根源的な正義を、人類が共有できる日が来れば、死刑はもちろんのこと、戦争も消滅するでしょう。理想論といわれるでしょうが、わたしたちは常に理想を求めて生きていくべきではないでしょうか。わたしたちは野蛮な獣ではなく、人間なのですから。戦争をすぐになくすことは、むずかしいでしょう。しかし、死刑制度なら廃止できます。わたしたち一人一人が、死刑という人殺しに加担することを、死刑制度廃止により、やめることができるのです。
死刑は犯罪抑止力になるか
多くの殺人事件が、かっとなった末の犯行であり、酩酊状態や、論理的な思考のできない状態での犯行です。「死刑になるからやめておこう」などと冷静に考えられる人が犯罪を犯すことは、ごくまれです。それどころか、「子どもを殺せば死刑になると思った」と、自ら死刑になることを望み、自殺願望を成し遂げるために死刑制度を利用した者さえいます。これを見ても、死刑が犯罪の抑制に有効であるとはいえません。
また、多くの研究や統計でも、死刑が犯罪抑止力につながらないという結果が出ています。
死刑に処することで、事件を「終わり」にしてしまい、犯罪の本当の要因に、社会がきちんと向き合うことがなくなってしまうことも大問題です。なぜそんな犯罪を起こしたのか。背景には、一個人の資質だけに帰することのできないさまざまな要因があります。貧困・虐待・いじめ・福祉の欠如など、犯罪者は、社会的問題のしわ寄せを受け、こらえきれずに「犯罪」という形で表現してしまった人であるともいえます。実際、犯罪者には、加害者になる以前に社会の被害者であったような人々が多いのが実情です。社会の問題を追求することなく、犯罪を減らすことはできません。死刑は、このような社会の問題を隠蔽するものに他なりません。
「犯罪者を抹殺すれば、社会が健全化し、犯罪がなくなる」と考える人も多いのですが、そんなことはありません。「ダメな奴、悪い奴は排除すればいい」「殺してしまえばいい」という排除の思想、差別の思想こそが、弱者を追いつめ、犯罪を生みだす温床になっているのです。社会の構造そのものを見直し、みんなで手をつないで生きていくやさしい社会を作らないかぎり、安全な社会は実現しません。
■「日本国民の8割が死刑に賛成」はほんとうか?
内閣府による世論調査で、「日本国民の8割が死刑に賛成」という結果が出ていると報道されています。しかし、その内実を見ると、疑問がわいてきます。
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平成16年「基本的法制度に関する世論調査」
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」6.0%
「場合によっては死刑もやむを得ない」81.4%
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確かに賛成が8割に見えます。しかし、設問のあり方自体に問題があったのではないでしょうか。「どんな場合でも…廃止すべきである」というきつい言い方に、多くの人は躊躇し、すぐに賛同しかねるでしょう。一方「場合によっては…やむを得ない」というやわらかな言い方であれば、心情として賛同しやすくなるのは当然です。このアンケートには、設問それ自体に、誘導的な要素が含まれていたといえます。
それ以前に行われた世論調査では、もっと別の設問が設定されています。
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昭和55年:犯罪と処罰等に関する世論調査
Q5 あなたは,重い罪を犯した人の場合でも, 実際にはなるべく死刑にしない方がよいと思いますか,そうは思いませんか。
「なるべく死刑にしない方がよい」25.3%
「そうは思わない」41.7%
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この設問では「死刑賛成派」は約4割で、平成16年の世論調査の約半分しかいません。さらに「なるべく死刑にしない方がよい=穏健な死刑反対派」は25.3%。平成16年の世論調査の死刑反対派はたった6%という結果と、なんという大きな開きでしょうか。
設問の仕方を変えるだけで、アンケートの結果は大きく変わってきます。誘導的なアンケートを実施することで「国民の世論」を政府がでっち上げることが可能なのです。さらに、その結果を公表し、マスコミが大々的に報道することで、世論をその方向に導くこともできます。わたしたちは、このような「つくられた世論」に踊らされているのではないでしょうか。世論の8割が死刑賛成であるという発表を、鵜呑みにしてはいけないということを、肝に銘じるべきです。
わたしはなぜ死刑に反対か
わたしは以前から死刑制度に反対してきました。その第一の理由は「命はたった一つのかけがえのないもの」だからです。どんな命にも尊厳があります。その命を大切にしたい。人が人の命を奪うことは、あってはならないと思うからです。
一つしかない大切な命を奪う犯罪を憎みます。だからといって犯人を殺すことには賛同できません。それは、新たな「殺人」をまた一つ、積み重ねることにほかならないからです。
罪のある人でさえ、その命を奪うことが正当であるとは思えません。まして、冤罪はなにをかいわんや、です。罪のない人が死刑に処せられること、死刑囚として死の恐怖に怯えながら監禁されることは、あってはなりません。日本では実際に多くの冤罪事件がありました。死刑制度をなくさない限り、冤罪による「殺人」をなくすことはできません。
被害者感情が、死刑判決の大きな理由の一つとされますが、これにも大きな疑問を抱いています。もしも、殺人事件の被害者が天涯孤独で、「極刑を」と訴える家族がいなかったとしたら、刑が軽くなるのでしょうか。人間の命に、重い軽いがあってはなりません。被害者感情を、死刑の理由にすること自体に、問題があると思います。
また、死刑に実際に携わる人々の人権問題もあります。国家による死刑執行といっても、執行するのは人間です。法務大臣が死刑執行を決定し、現場の刑務官が実行しなければなりません。裁判員は、死刑という量刑が存在する限り、その人の命を奪う決断を迫られることになります。結局は、人が人を殺すのです。それぞれの心に、大きな傷を残すでしょう。それどころか、死刑制度が存続する限り、わたしたち国民一人一人が、死刑制度を容認していることになり、死刑が執行されるたびに、それに加担していることになるのです。これは、わたしにはとても耐えられないことです。
「人が人を殺すことは許されない」このたった一つの正義を、世界中で共有できる日が来ることを願っています。戦争も死刑も、この地上からなくなる日のことを願い、死刑制度に強く反対します。
最後に
わたしは2007年から奈良少年刑務所で、「社会性涵養プログラム」の講師として、月一回、受刑者に、童話と詩の授業をしてきました。受刑者と触れあうなかで、彼らの背景にあった過酷な生育歴、社会の矛盾を強く感じてきました。この社会の矛盾が、彼らを犯罪者としたのだということを、感じずにはいられません。
また、百人以上を見てきたなかで、一人として変わらない子はいないということも驚きでした。程度の差こそあれ、みな心を開き、罪を悔い、温かい思いやりの心さえ見せてくれたのです。人は変われる、ということを、受刑者たちを見て確信しました。
人を殺してしまったような、人間としてある意味どん底に堕ちた人々でさえ、ほんとうは心のどこかにやさしさを持っていると知ったのです。彼らのやさしさを引きだすためには、彼らを理解し、受けいれることが大切です。自尊感情が芽生えてこそ、彼らは初めて、自分自身の罪をほんとうに悔いることができるのです。つらい罰を与えたり、脅かすことで、彼らが心の底から変わることはないように思います。それでは、動物をムチによって調教するのと変わりません。口先だけではなく、心の底から罪を償う気持ちを抱いてもらうためにも、彼らと、同じ人間として真正面から向きあうことが大切だと感じています。
寮 美千子(りょう・みちこ)さんのプロフィール
1955 東京に生まれる
1985 毎日童話新人賞受賞
2005 泉鏡花文学賞受賞
2006 奈良に移住
2007~ 奈良少年刑務所の社会性涵養プログラム講師となり、月1回の詩と童話の「物語の教室」を担当。 授業の中で受刑者が書いた詩をまとめた『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』が話題となっている。
寮美千子 公式ホームページ